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[大会コース]明治公園(東京都新宿区霞ヶ丘)をスタート&ゴール地点とした 明治公園ー平河町ー銀座ー築地ー八丁堀ー永代橋ー清澄庭園 *自転車は車道走行がメインになります。車道では左側一列走行を遵守してください。交通規則を遵守し、推奨コースを走ります。 ■コースマップ
[コースガイド]明治公園をスタートして、隅田川の東側、東京スカイツリーの袂まで足を延ばす今年のコース。約30kmの行程には、東京・下町の風情をたっぷりと堪能できる歴史に彩られたスポットがたくさんあります。場所にまつわる史実やエピソードを知っているだけで、走る楽しみが倍増します。 |
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江戸城の名残を残す、日比谷公園 江戸幕末までは佐賀鍋島家、萩毛利家などの上屋敷が置かれており、明治時代には陸軍近衛師団の練兵場となりました。その後、「都市の公園」として設計され、1903年(明治36年)6月1日に日本初のドイツ式洋風近代公園として開園。日比谷交差点に近い心字池は江戸城に連なっていた堀の名残で、かつての石垣の一部を今でも見ることができます。4月から5月にかけては、チューリップ、フジ、レンギョウなど、春の色とりどりの花が目に鮮やかに咲いています。
米国人ライト設計による 日比谷公園前の信号から正面に見えるのが帝国ホテル。1922年に完成、惜しまれつつも1967年に取り壊された旧・帝国ホテルは、1912年、当時の総支配人だった林愛作が旧知のアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに設計を依頼。鷲が翼を広げたような巨大なホテルは、実は小部分がいくつも繋ぎ合わされた連結構造になっており、これで建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みになっていました。関東大震災にあった東京でも、多くの建物が倒壊したりしたなかで、ほとんど無傷であった帝国ホテルは、当時人々の注目を集めました。
明治天皇と若者から命名された、 銀座の裏道、といった雰囲気のみゆき通り。泰明小学校の横から、銀座中央通りと交差して晴海通りと平行に伸びる全長約1.2kmを、今年のコースは走ります。名前の由来は、明治時代に天皇が海軍兵学校の行幸(みゆき)の際、また浜離宮へのお成りの時、この通りを行幸路とされたため、いつしか「みゆき(行幸)通り」といわれるようになりました。1960年代になると、アイビールックを取り入れた若者が集まり、みゆき通りを闊歩したことから「みゆき族」の名が生まれました。
古代インド様式の、築地本願寺 築地市場を過ぎ、鍛冶橋通りの右手に見えてくる寺院は、京都にある西本願寺の別院、築地本願寺。1617年(元和3)の創建時は、浅草横山町にあり、明暦の大火(1657年)により消失しました。佃島の門徒たちの強い願いにより、門徒衆が埋め立てて築いたこの地に再建。関東大震災により再び消失。古代インドの建築様式を取り入れた現在の本堂は、昭和9年に建てられました。本願寺内のブディストホールでは、映画上映や演劇の公演なども行われています。
赤穂浪士・堀部安兵衛の、八丁堀 赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が堀部弥兵衛の養子となり、娘・妙と結婚して所帯を構えたのが八丁堀。あたりを流れる亀島川にはいくつも小さい橋が架けられていて、いかにも大江戸捕物帖の舞台になりそうな名残があります。内匠頭切腹から、吉良仇討ちを強く願っていた安兵衛がその本懐を遂げたのは34歳のときです。亀島川の袂には、安兵衛の碑が建てられています。
勇壮な男のイメージ、永代橋 八丁堀から鍛冶橋通りを進むと、いよいよ隅田川が見えてきます。そこに架かっているのは永代橋。江戸の市街化が進み、本所深川地区が発展したことに伴い、江戸府中と墨東を結ぶ橋として架けられたものです。橋の維持には莫大な財政負担があったようで、幕府は橋の維持に手を抜き、その結果文化4年、深川八幡祭の見物に繰り出した群集が橋の上にあふれ、その重みで橋が落ちました。現在の橋は、大正15年震災復興橋梁の第一号でした。内務省は建設にあたり、帝都の威信をかけ、そのデザインに意匠を凝らしました。この橋の男性的なイメージは、帝都東京の威信を象徴したものです。
岩崎弥太郎の、清澄庭園 最初のエイドステーションは清澄公園。隣接している清澄庭園には、ツツジ、ハナミズキ、ジンチョウゲと花々が咲いています。紀伊国屋文左衛門の屋敷跡を岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的として、1880年(明治13)庭園の造成に着手。社長を継いだ弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど、大きく手を加え、1891年(明治24)に回遊式築山林泉庭園として完成させました。1923年(大正2)の関東大震災では、近隣住民の避難場所となり、多くの人命が救われました。1924年(大正13)、三代目社長の久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。1932年清澄庭園として開園しました。
大きな木の下に人々が集まる、 2012年5月22日に開業する、世界一の電波塔である東京スカイツリー。スカイツリーのデザインコンセプトは、空に向かって伸びる大きな木のイメージ。シルエットは、伝統的日本建築などにみられる「そり」や「むくり」を意識し、大きな木の下に、人々が集い、心を寄せ合う様子を表しているそうです。頂部から足元に向かって変化するしなやかな曲線が、凜とした佇まいと優美な雰囲気を生み出しています。三角形の足元から、円形の頂部へと変化するその造形は、眺める場所や角度によって多彩な表情をみせてくれます。
スカイツリーの撮影スポット、枕橋 1662年(寛文2)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられました。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいました。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と呼ばれるように。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅、明治8年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなりました。
人形師が集まった、人形町 小説「新参者」で一躍脚光を浴びた人形町。家康が入府した16世紀末には、この辺り一帯は葦の生い茂る低湿地だったといわれます。江戸の治水対策の一環として、現在の日本橋川にあたる道三堀を掘らせ、その残土を用いて堀の両岸を開拓。こうして生じた広大な土地に町人たちを住まわせることで、江戸の経済の基盤を整えようとしたことが、この地域が商業地として発展するきっかけになりました。現在の人形町にあたる場所には江戸歌舞伎座がありましたが、歌舞伎は公演が一日中行われ、しかも木戸銭が高いことから、庶民向けに人形浄瑠璃の芝居小屋ができ、次第に人形師が集まるようになったのが人形町の起こりです。人形町の交差点付近には、周囲を堀で囲んだ遊郭街が形成され、吉原と呼ばれ、1657年明暦の大火後浅草へ移転させられます。
水運により荷揚げがさかんだった、 人形町を過ぎると頭上に見えてくるのが首都高江戸橋ジャンクション、首都高都心環状線の下には運河が見えます。1603年(慶長8)の町割のときは下舟町といいましたが、1720年(享保5)に西側の大船町に対して小舟町と名付けられました。西堀留川が通り、その両岸には小舟河岸、東方河岸、西方河岸などの河岸が並び、江戸湊の一端として荷揚げがさかんに行われていました。小舟町二丁目は大正まで問屋の進出が続き、回漕問屋、鰹節塩乾魚問屋、荒物乾海苔問屋、綿糸・綿布問屋などが軒を並べていました。なかでも、団扇問屋は江戸錦絵の美人画や役者絵を全国に知らせることに大きく貢献しました。 取材 |
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